◆丹生ダム建設計画の経緯◆
丹生ダムは、京都府など下流自治体の利水や高時川の治水などを目的に計画が発表されて三十数年たち、既に五百三十億円がつぎ込まれ、工事用道路もほぼ完成、本体工事の着手寸前にあるが、河川整備計画策定という作業で足止め状態にある。当初の計画では堤体積1390万立法メートルという日本第1位の規模であったが、2005年7月、河川管理者の国交省近畿地方整備局は、規模を三分の一に縮小する方針を示した。
丹生ダム問題は、地元では長い歴史のなかで曲折を繰り返した。当時の建設省が1968年ごろから予定地で予備調査を実施、1980年2月に、地元で実施計画調査の説明会があり、問題が勃発した。高時川上流の余呉町小原に総貯水量1億5000万トンの治水、利水ダムを建設する計画だった。計画発表当時は、ダム問題の交渉はダムサイトを境に水没する上流の小原、田戸、奥川並、鷲見、尾羽梨、針川の6集落の上流部会、下流の下丹生、上丹生、摺墨、菅並4集落の下流部会、さらに上流の残存する中河内の三つに分かれて対応していた。下丹生の下流地域は、「頭の上に巨大なダムができる。恐ろしいダムの下では暮らせない」と絶対反対だった。水没する上流の6集落は、少し事情が違った。これらの集落は、林業と炭などの生産で生計を立てていた。しかし、昭和30年代ごろからプロパンガスの普及で、炭が売れなくなって生活ができなくなったうえ、豪雪地帯。若者は都会へ流出、残った老人たちは、ダムを機会にいっそ山を下りようかと考えるようになっていた。上流地区と下流地区で意見が違い相当ぎくしゃくし、さまざまな議論を経て、上流、下流の住民がいっしょになって1982年3月、高時川ダム(現丹生ダム)対策委員会が発足した。下流地域には、根強い反対があったが、上流の人たちの生活の問題もある。地元の納得できるダムをということで、ダムを生かした自然公園づくりを目指す事等、国などに要望を突きつけ、苦渋の決断をした。 いまだに着工できないままの計画変更に『地元はダム賛成というのが一人歩きしている。国が造らせてくれというから論議を重ね、やむなしとなった。本当ならとっくの昔に完成しているはずだ。町もダムを見込んで先行投資、町づくり計画をしている。ダムがなくなったら町政は立ちゆかなくなる。』と、国に対する不信感は根強い。
地元の立場もわかるが、丹生渓谷の豊かな自然を守るため、このまま中止の方向に進む事を願わずにはいられない。
◆丹生ダム建設計画年表◆
1968年10月 予備調査を開始
1972年12月 琵琶湖総合開発計画に高時川ダム(現丹生ダム)の計画を計上
1980年4月 実施計画調査着手
1982年3月 地元関係者による「高時川ダム対策委員会」発足
1982年8月 淀川水系における水資源開発基本計画(全部変更)に高時川ダムとして位置付けられる
1984年6月 「高時川ダム実施計画調査に関わる基本協定書」締結
1987年11月 高時川ダム下流市町による「高時川治水対策促進協議会」発足
1988年4月 建設事業着手
1988年12月 環境影響評価準備書
1990年3月26日 水資源地域対策特別措置法に基づくダム指定(水没戸数40戸、水没農地24ha)
1991年2月 環境影響評価書の公告・縦覧
1992年4月 丹生ダムの建設に関する基本計画の告示(ダムの名称変更)
1992年8月 淀川水系における水資源開発基本計画(全部変更)において、名称変更等される
1993年6月 水源地域整備計画余呉町案の提出
1993年8月 ダム建設事業に伴う損失補償基準の妥結・調印
1993年9月 工事用道路並びに県道改築工事に関する協定の締結
1994年1月 淀川水系における水資源開発基本計画の一部変更(事業主体変更)
1994年3月 丹生ダム建設事業に関する事業実施方針の指示
1994年3月 丹生ダム建設事業に関する事業実施計画の認可
1994年4月 水資源開発公団事業承継
1995年2月 水源地域指定申出書を内閣総理大臣に提出
1995年3月3日 水源地域対策特別設置法に基づく地域指定、同官報告示
1995年3月 工事用道路工事に着手
1995年6月 水源地域整備計画県案を内閣総理大臣に提出
1995年8月3日 水源地域対策特別措置法に基づく水源地域整備計画決定
1995年8月23日 水源地域整備計画を内閣総理大臣が官報告示
1996年12月 水没家屋等移転完了
1997年6月 淀川水源地域対策基金のダム指定および業務細則の決定
2005年7月 河川管理者の国交省近畿地方整備局が大幅なダム縮小案を公表